【ナーロッパ創作支援】中世ヨーロッパの穀物収穫率

創作をしている中で「当時は農地からどのくらい穀物が収穫できたんだろう……?」と疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回は九州大学名誉教授などを務められた西洋史学者、森本芳樹(1934~2012)先生が書かれた論考『収穫率についての覚書』を読みつつ、創作に活かせそうな情報を抜粋して皆様にお届けしようと思います。

出典:経済史研究 第3号(1999年3月発行)

注)以下では、創作に活かすという前提のもと、恣意的に抜粋をしています。課題レポートや卒業論文などに上記の論考を使用されたい方は、原文をしっかり読んでください。

論考『収穫率についての覚書』より抜粋

例えば教会に対する十分の一税は、畑で刈り取られた10束のうち一つをそのまま徴収権者の倉庫に運ぶと言われている。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)138(30)

中世ヨーロッパの農民は、教会や聖職者の生活を維持するため、収穫物の十分の一を教会に納税していました。これを「十分の一税」と言います。

サラリーマンが所得税を源泉徴収されるように、収穫してすぐ納税したようですね。

ドラトューシュの強調点の一つは、(中略)原則として農民経営での収穫率が領主直接経営のそれよりも高かったとして、(後略)。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)137(31)

領主直轄の農地は、農奴や農民の賦役によって耕されていました。

農奴の労働意欲は低かったでしょうし、農民も賦役に精を出すより自分の保有地を耕したいと思ったことでしょう。

ボローニャ大学に拠るイタリア中世農業史学派の中心人物の一人であるモンタナーリも、(中略)レッジオのサン・トマッソ修道院の所領明細帳から、最低は確かに1.7ではあるが、大半は2以上に位置していて、最高では3.3(手書本の読み方では3.8)に達するという収穫率を挙げている。(中略)

中世フランス最北部の資料に精通するデルヴィルは、(中略)1989年の三圃制度に関する論文では、カロリング期からそれが実践されていたことを主張しつつ、(中略)

9世紀中葉に比較的近い場所で作成されたサン・ベルタン修道院の所領明細帳から、農民の貢租負担に関するデータを取り出し、農民生活に必要と考えられる食料などをめぐる複雑な計算の上で、最低でも4はあったと指摘している。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)136(32)

カロリング朝期(8世紀~9世紀)のイタリアで、収穫率(種もみ1から何倍の穀物が収穫できるか)が2以下になる状況はほとんどなかったようですね。

最低は1.7という記述がありますが、大飢饉に見舞われた年だったのでしょうか? 2倍にもならなかったと考えると、かなり生活が苦しかったでしょうね……。

1992年に出版されたコメットの中世作物栽培に関する大著におけるものであるが、(中略)まず、史料解釈の次元では、庫納される以前の収穫からの控除を見落とすべきではないとして、かかるものとしては十分の一税がある他に、国王や役人の取り分が畑から直接外部に運ばれている可能性があるという。(中略)

農民保有地の生産性は領主直轄地より高かったに違いないとした上で、前者での収穫率は3から4はあったと主張している。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)135(33)

農民は、教会に十分の一税を支払うだけでなく、領主への年貢も納めねばなりません。

すでに1963年から64年にかけて、スリヘル・ファン・バードが大量の素材を処理した論文「穀物を中心とする諸作物の種子との比率での収穫量。810年頃~1820年」(中略)これが、現在までに実現された収穫率の最も大きな集成なのである。(中略)

ヨーロッパ中世における収穫率が大体において5以下の低い数値である中で、時と場所によっては著しく高い成績があげられていたことである。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)134(34)
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経済史研究 第3号(1999年3月発行)小麦、ライ麦、大麦の収穫率(50年期)

本文中にある「小麦、ライ麦、大麦の収穫率(50年期)のグラフ」を引用させていただきました。

大変興味深いグラフですよね。地域によってかなりの差があることが見て取れます。特に17世紀以降のイングランドとネーデルラントの伸びが凄まじいですね。

13世紀のリル近辺で12、14世紀のアルトワで13という収穫率の例があり、集約農業で有名となるフランドル農法においては、20から30という収穫率までが実現されている。これに対して例えばデンマークについては、16世紀に至っても収穫率が4に到達しない様相が報告されている。(中略)

スリヘル・ファン・バードによって収集された収穫率のほとんどすべては、領主経営に関するものと考えてよい。(中略)

農民経営における生産性の優位を収穫率の具体的な数字で論じるのは、まったく不可能なようである。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)132(36)

前述のグラフは領主直轄地の記録をもとにしたものだったようですね。

また、中世ヨーロッパの収穫率はほとんどの場所で5以下だったようです。

「フランドル農法」とは、ベルギー西部のフランドルで16世紀末~19世紀初頭にかけて行われた、三圃式農業の休閑地に飼料作物を栽培して牧畜に利用する農法のことです。

13世紀のイギリスを先頭として登場してくる農書が、有力な材料を提供してくれる。(中略)例えば、逸名の著者による The Husbandry の冒頭近くには、大麦8、ライ麦7、荳類6、大麦/燕麦同量混合6、小麦/ライ麦同量混合6、小麦5、燕麦4という収穫率が挙げられているが、これらは標準的な数字であって、年と土地によって、また秋播きか春播きかで変動すると念押しされている。(中略)

もし、貴方の農場の収穫が、種子の3倍ほどにもならないなら、穀物が高価でない限りは、貴方はなにも儲けないであろう

経済史研究 第3号(1999年3月発行)123(45)‐122(46)

「荳類」とは豆類のことです。

13世紀のイギリスでの農場経営において、最低でも蒔いた種の3倍の量を収穫できなければ赤字だったということが分かりますね。

収穫率とは一定の穀物量を経営的に増加させようとする志向からよりは、むしろ少ない穀物備蓄を維持しつつ、なるたけ多くをそこから消費のために取り出そうとする関心から出ていると考えられよう。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)117(51)

これは興味深いですね。現代に生きる我々からすると「どれだけ多く増やせるか?」のような、いわば資本主義的な考え方をするのは自然なことですよね。しかし中世ヨーロッパの人々は「どれだけ使っても問題ないか?」のような、消費を中心とした考え方をしていたようです。

土地面積当たりの収穫量の計算は、ずっと混み入っていた。ことに困難を増幅したのが、中世における度量衡の多様性であり、エーカー当たりのブッシェル数といっても、そのまま比較できるわけではなかったのである。

経済史研究 第3号(1999年3月発行)116(52)

「エーカー」は面積の単位です。もともとは「雄牛2頭引きの犂を使って1人が1日に耕すことのできる面積」を1エーカーとしていたため、場所によって1エーカーの広さは様々だったそうです。1277年にイギリスのエドワード1世が「法定エーカー」を定めたことで、1エーカー=約4,047平方メートルと決まり、現在に至るそうです。

「ブッシェル」は体積の単位で、現代のイギリスでは約36リットル、アメリカでは約35リットルと決められています。主に穀物の計量に用いられています。あくまで体積なので、穀物の種類によって1ブッシェル当たりの重さは変わります。例えば、小麦や大豆は約27.2キログラム、トウモロコシは約25.4キログラムとなります。

収穫率についてのまとめ

中世初期~盛期の収穫率は、だいたい2~5の範囲に収まるようです。ただし、時代と場所によっては、例外的に12~30という驚異的な収穫率を達成した地域もありました。

13世紀イギリスでは収穫率が3以下の場合、収穫よりも経費の方が大きくなってしまい利益は出ませんでした。また、16世紀になっても収穫率が4に到達しない地域もありました。

このように、年代や地域により差が大きすぎるため、本来であれば中世ヨーロッパを一括りにするのはよくないのですが、あえて言うとすれば、中世初期~盛期の穀物収穫率は、おおむね3~4と考えるのが妥当ではないでしょうか

備考

文責:斜構 宅夫

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